天はすべて許し給う All That Heaven Allows 1955

ダグラス・サーク Douglas Sirk

ダグラス・サークはドイツで活躍していた監督であったが、妻がユダヤ人であったため、1937年にアメリカに移住。戦後の1950年代に良質なメロドラマを制作した監督でクエンティン・タランティーノが敬愛する監督でもある。

内容

上流過程の未亡人(子供は2人いる)が、自宅に出入りしている庭師の男性と恋愛に落ち、結婚を考えるのだが、社会的には禁断というドラマである。
ヨーロッパ的な The Merry Widow 「陽気な後家さん」的な話ではなく、いかにもアメリカ的なホーソーン「緋文字」のようなプロテスタントのがんじがらめの重苦しい価値観が横たわる世界の中のドラマである。

主人公の女性ケリー(ジェーン・ワイマン レーガン大統領の最初の妻)を軸に、上流社会と恋愛対象の若い庭師の青年ロン(ロック・ハドソン)の社会階層を付き合う友達の描写で対比的に描いている。例えばロンの性格を描くためにソーローの詩を読み上げる象徴的なシーンがある。

引用

”大衆は静かな絶望の生活をおくっている。いわゆるあきらめと確かめられた絶望である。絶望した町から諸君は絶望した田舎に行く”

森の生活 ソーロー 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001209/files/54189_68486.html

このような価値観は上流階級とは相容れない。上流階級からは、地位や名誉を持ってない人は侮蔑の対象とされてしまう。上流階級の価値観は形而上的なものよりも物質主義であることを描いている。
それで主人公の女性ケリーがロンと結婚しようと子供達に打ち明けた時も、子供達は庭師のロンと結婚するのを反対するのだ。金のないやつと結婚するのは恥で、家族や祖先を貶める行為で恥知らずとなるのである。

小津安二郎の名作「東京物語」も子供が親を大事にしない(血の繋がっていない義理の娘の原節子の役は別)で子供はエゴイッシュに振舞うことを描いているのだが、それとは悪意なき純粋さが違い、こちらの映画の中では、社会的差別という価値が入りドロドロしたものになっていくのである。
とは言っても日本にも昔「団地の子とは遊んではダメ」的な差別感があったから、上流階級でなくてもどの社会の階級にもある差別的価値観なのかもしれない。

この映画が教えてくれたこと

自分の幸せは自分で考えてつかめ、戦えということであった。
ともかくも利害関係でアドバイスをしてくれる輩にロクなやつがいないことを教えてくれるのだが、それが利害関係に基づいた意見かどうかは立場もあると中々見えないものである。それに実の子供から「庭師なんかと結婚するのは恥ずかしいからやめて」と言われたら親だったら躊躇するのが人情である。親なら「私さえ、我慢すれば。。」と。
でも結局、親の幸せなんか子供は考えてなかったのだし、親友も無責任なアドバイスのオンパレードであった。やっぱり「自分の人生は自分で決めろ!ひとのせいにするな!」これだよね。そしてリスクと責任に腹くくれ!とならないと幸せなぞ来ないのかもしれない。
天が許してくれるもの、それは個人の意志、人生の選択権である。ガラスの向こうの鹿が覗いていたように。

 

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